2010年07月07日

火を噴くような説教

院政を放り出して何故かイタリア史的な小話を。

欧米の言語ってのはご承知の通りラテン語ベースで形成されてるのだが、各国の言葉を見ると同義語でも語源が違うってのが割と存在する。
主に仏・伊・西と英・独・蘭あたりで分かれている気がするのは地域的というか語圏的なところに因るんだろうなと思うが、言語学には明るくないので考察は省く。
まぁそんな風に思ったのは、イタリア語の日曜が"Domenica"で、ま、まさかこれはドミニコ会と何か関係がっ!な、なんだってー!?と思ったから。

ドミニコ会といえば、フランチェスコ会と並んで清貧を貫くことで有名な托鉢修道会である。
なんでドミニコ会と言うかは、創設者が聖ドミニコだからで、じゃぁ聖ドミニコって何者?ってことになると、この人はカスティーリャの人だそうな。
で、名前がスペイン語で"Domingo(日曜)"、これはラテン語の"dies Dominicus(主の日)"から来ているのだろう。
ドミニコ会とは直接の関係はないと言うことがあっさり判明してしまった、意外と詰まらん。

さてドミニコ会といえば、パッと思い浮かぶのはやはりジローラモ・サヴォナローラであろうか。
激烈な説教で市民を虜にし、フィレンツェからメディチ家を追放し、共和国の政治顧問となり神政政治を行い、美術品や工芸品を堕落と虚栄の象徴としてキャンプファイヤーにしたり、終には教皇庁の批判まで繰り広げて破門されたり、とまさにやりたい放題。
まぁ最後は自分の導いた共和国に逮捕され火刑というオチが待っているわけだが、その辺の教会批判やら信仰に立ち返るべしという主張やらが宗教改革の先触れとされることもあるらしい。
詳しいことは追々調べたいと思うが、サヴォナローラが活躍した時代の教皇といえばあの悪名高きアレクサンドル6世である、ここ注意すべきポイント。
しかし昨今の私の現実逃避っぷりはサヴォナローラ辺りからすれば火あぶりどころでは済まされないかもしれない。

ところでこの時代のスペインといえばレコンキスタが終わって国内の安定化を急いでいる最中で、キリスト教に改宗したユダヤやムスリムを「異端のくせに生意気だ、メッタメタのギッタンギッタンにしやる!」と大暴れしだした時期。
時の法王でさえやり過ぎだと危惧した異端審問を、スペイン王に認めさせたのが、バレンシア出身のロドリゴ・ボルハ枢機卿、後のアレクサンドル6世である。
別に隠してるわけじゃないけれど、ボルハをイタリア語読みにするとボルジアだったりして。
何だかイタリア史じゃなくてスペイン史みたいだな。

結局何が言いたいのかというと、皆でスペイン宗教裁判のスケッチを見なさい。

(赤服を着た3人組の男達が突然現れる)
"Nobody expects the spanish inquisition!"

Monty Pythonのスケッチはやっぱりスペイン宗教裁判とSPAM!が最高だよね。
映画なら勿論Holy Glail。
posted by Yatsumi at 20:45| Comment(7) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

宗尊親王考(2)

延久の善政と堀河帝践祚まで

延久の善政というのは後三条天皇の治世を表す代名詞であるけれども、この白河院の父にあたる帝は宇多天皇以来170年振りに藤原氏を外戚としない帝であった(先立つ宇多帝と言えば藤原氏を退けて菅公を重用した事で有名)。
時の関白、藤原氏長者は道長の嫡男、頼通である。

道長について少しだけ触れておきたいのだが、まぁそもそも道長自身は栄達の道が半ば閉ざされていた筈なのに、氏長者であった長兄の道隆、三兄道兼が相次いで病死した為お鉢が回って来たというのは有名な話。
んでもって長兄道隆の跡継ぎである内大臣伊周を退け藤原氏嫡流として権勢を誇ったのも有名な話。
伊周失脚の後に内大臣として道長を補佐したのが叔父にあたる公季であるが、この公季の家系は閑院流という名でこの先しばしば出て来るので記憶の片隅に置いておこう。

さて、延久の荘園整理令に代表される様に積極的な親政を行う後三条帝に対し、摂関政治に欠かせない女子に恵まれなかった関白頼通は、弟左大臣の教通に氏長者を譲り、暫くして自分で建てた平等院へ引き篭もってしまう。
衣冠極めた父、道長も晩年は法成寺で念仏を唱える生活であったろうから、余程末法の世とは恐ろしい存在であったのだろうなと。
これが浄土教信仰というものであり、阿弥陀如来様の功徳とはまっこと有難いものである、南無阿弥陀仏。
また、従兄弟同士や叔父、甥の間柄に留まらず異母であろうが同母であろうが兄弟で権力争いをするのが藤原摂関家の常。
頼通、教通兄弟の争いは、夫々の息子である師実、信長の何れを関白に就けるかという争いへ変わって行くのだが、これが後三条帝から貞仁親王への譲位後という難しいタイミングで起こるからややこしい。

後三条帝には3人の皇子がいたのだが、長男の貞仁親王は上記の閑院流公季の嫡子(実際は孫)公成の娘、茂子との間に生まれた子、つまり嫡流でないとはいえ藤原氏を外戚に持つ皇子であった。
次男の実仁親王、三男の輔仁親王は母が藤原氏でないので、外戚を嫌う後三条帝はこちらを皇嗣としたかったようだが、如何せん帝の退位時には2歳児と0歳児、会話が「ハーイ」「バーブ」「チャーン」だけでは政治にならない。
仕方無しに実仁親王を皇太弟とすることで貞仁親王に譲位……これが白河天皇の践祚である。
上皇となった後三条院は翌年、「白河帝の次は実仁親王を皇位に、輔仁親王はその次に践祚」との言葉を残して崩御するのだが、肝心の実仁親王が15歳にして疱瘡で没してしまう。
遺勅に従うならば輔仁親王を皇太弟とし譲位するところなのだが、ここで白河帝は実子の善仁親王を立太子し同日には譲位、堀河天皇を即位させてしまう。
これは一般的に輔仁親王の系統を皇嗣候補から除外する目的で白河院が強く推し進めた結果とされるが、朝廷内でも誰彼構わず天然痘に倒れる時代に於いて、親王はやはり有力な皇位継承者であった事は間違いなく、やがては永久の変という事件へ発展して行くのだが、それはまた別のお話。

ところで話を藤原氏に戻すと、師実、信長の従兄弟同士による関白争いは夫々が左大臣、内大臣に進む所まで至った訳だが、もともと師実の養子として東宮時代に入内した賢子を白河帝が寵愛しており、ここに於いて氏長者であった関白教通が亡くなると形勢は一気に師実側へと有利に傾く。
これにより藤原氏の嫡流は師実系統に落ち着くのだが、実はこの中宮賢子は村上源氏の出身であり、結果として堀河帝の即位は外戚である藤原氏の影響力を削ぐ形となったという皮肉。
いや、白河帝としては寵姫の息を皇位に就けたいってのが一番の動機だったように思えてならないんだけれども。
余談ではあるが白河帝の好色は当時から有名で、それが原因で後に天下の大騒動が起こるのだが、賢子が亡くなるまでは殆ど浮いた話がないというのが意外である。

また、賢子は堀河帝を出産する前に敦文親王という皇子を出産しているのだが、この親王は僅か4歳で没してしまう。
これには逸話があり、園城寺の僧で頼豪という者が、何でも望みを叶えるという約束で白河帝の皇子誕生を祈願し敦文親王が生まれたが、望んだ戒壇院建立は山門派の抵抗で終に果たされることがなかった。
戒壇を置くということは国家がその寺に授戒を行うことを認める行為であり、最澄没後、延暦寺に大乗戒壇が置かれた際は天台内部に留まらず南都の寺院をも巻き込んでの大論争となったらしい。
お山から出て行った寺門派にしてみれば戒壇院建立は悲願であったろうが、望みが叶わなかった頼豪は、今度は生まれた親王を呪詛で取り殺し、更には石の体躯と鉄の牙を持つ巨大な鼠へと姿を変えたという。
この頼豪が変化した妖怪を鉄鼠というそうな。
なお、敦文親王の没年は1077年、頼豪の没年は1084年であることに注意されたい。

長らく寄り道をしたが、後三条帝から白河帝の治世は、一般的に外戚の影響を排して院政期への流れを形作ったと評されるけれども、こうやって見ると実はもう少し複雑な事情があったんだなと。
勿論結果としては先の寸評で間違ってはいないのだけれども、この後の閑院流台頭を考えるとやはり物足りない所があるし、白河院の院政初期はどうもイメージされるほど絶大な権力を握っていた様ではないし。

では白河法皇が如何にして治天の君と称される様になったのかは次回に。
あと186年……
posted by Yatsumi at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宗尊親王考(1)

大仰なタイトルの割には何処まで詰められるか解からないまま筆を取る。

もう9年も昔になるのが俄かには信じ難いのだが、NHK大河ドラマ「北条時宗」で吹越満が怪演していたのが事の発端。
高校生の当時からして色々とツッコミ所の多い大河ではあったが、打倒鎌倉に燃える宗尊親王像には大きく感化された様に思う。
映像自体は、NHKアーカイブスに行っても総集編しか見ることが出来なさそうで至極残念である。

で、その大爆笑モノの宗尊親王像を胸に抱きつつ随分と長い年月が経ってしまった訳で、ここらで一つ整理しておこうかなとWikipedia先生と山川出版社先生に教えを乞うた所、どうもこれは如何にして政治権力が朝廷から武士へと移行したのかを把握した方が人物像を想像し易いのではないかと思うに至る。
武士の台頭を振り返るならやはり保元・平治の乱は押さえておかねばなるまいが、やはり人間関係を確認するという意味では崇徳院と後白河院の対立、延いては鳥羽院、白河院の確執と遡らなければ理解は難しかろう。
あとはまぁ後三条院の頃から段々と衰退して行く摂関家内の対立と三后、准后辺りの駆け引き、源平両氏の立ち位置確認を。
源平合戦から実朝の暗殺までは流す程度にして、九条頼経、宗尊親王と惟康親王らの鎌倉将軍達をおさらいしつつ、宝治合戦や二月騒動、霜月騒動などの鎌倉幕府内部に於ける北条得宗家や御家人、御内人のゴタゴタをチェック。
あとは元寇に絡んで亀山院と後宇多院の治世、後深草院と併せて南北朝の対立辺りまでまとめられたら良いなぁ。
後醍醐帝までやる心算はないのだが、ざっと見ただけで約200年間……まあね、皇室が常に争いの渦中にあった時代なのだから扱う範囲は途轍もなく広くなるのは自明であるけれど、めげない程度に頑張ろう。

何分割すれば綺麗にまとめられるかは不明だが、興味が途切れない内に更新を続けたいので一つ宜しく。
posted by Yatsumi at 04:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月27日

ピュロスの勝利

改めて世界史の通史を初めから勉強し直しているのだが、抜け落ちている知識があまりに膨大で、我が事ながら少々恥ずかしい。
と言う事で、この歴史タグは「余計な知識であるのは間違いないけれど、覚えておいて損は無いだろう」的な小ネタを書き連ねて行こうと思う。
ある人はそんなのは世界史の常識じゃないかと言うかもしれないし、ある人はそんなのは覚えても意味が無いと言うかもしれない。
まぁ私の勉強であって、趣味なので。

共和制ローマがイタリア半島を統一したのはB.C.272年とされているが(B.C.270年との記述もある、要検証)、最後に陥落したのはスパルタの植民市であったタレントゥム(ターラント、あのアッピア街道の終着地)であった。
因みにそれ以前にもローマ軍はタレントゥムを攻略しようと派兵していたのだが、それを悉く跳ね返したのがエペイロス(古典ギリシャ語、希:イピロス)王ピュロス。
普通の人が彼の名を耳にする機会があるとしたら、それは第2次ポエニ戦争後にハンニバルと大スキピオが語ったと言われる逸話が殆どだろうか。

で、「勝つけど自軍の損耗が増える→ローマは懲りずに何度もやって来る→また勝つけど兵がもっと減る」という悪循環に嫌気が差して、ピュロス王はシチリア遠征に行ってしまったとさ。
この事から採算の取れない、割に合わない勝利の事をピュロスの勝利と言うそうな。

ピュロスが生きた時代はアレクサンドロス3世が没してディアドコイ戦争が始まった頃から、共和制ローマがイタリア半島を統一した頃まで。
世界帝国が崩壊し、次の世界帝国がその頭角をほんの少しだけ見せ始めた混乱期に生きた将軍、というイメージが強いなぁ。
世界史の本を見るとアレクサンドロスの帝国が崩壊した後、アンティゴノス朝マケドニアが成立してセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトと鼎立……みたいに書かれているけれど、アンティゴノス1世(続くカサンドロス朝マケドニアを挟む)、デメトリオス1世、アンティゴノス2世の3世代によるマケドニア(及びギリシャ全土)統一は想像以上にグダグダっぽくて最早訳がわからん。
実際にピュロスは義兄であるデメトリオスと抗争の挙句マケドニア王位に就いたり、その息子のアンティゴノス2世に蹴落とされて王位を失ったりと結構な人生を歩んでいる。

その後の繁栄を手にしたって事で、ディアドコイ戦争の勝者はプトレマイオス……とは言い切れない気もするんだけどね。
しっかし史実の混乱以上に文筆が乱れ過ぎだぁ。
posted by Yatsumi at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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