2010年05月23日

宗尊親王考(2)

延久の善政と堀河帝践祚まで

延久の善政というのは後三条天皇の治世を表す代名詞であるけれども、この白河院の父にあたる帝は宇多天皇以来170年振りに藤原氏を外戚としない帝であった(先立つ宇多帝と言えば藤原氏を退けて菅公を重用した事で有名)。
時の関白、藤原氏長者は道長の嫡男、頼通である。

道長について少しだけ触れておきたいのだが、まぁそもそも道長自身は栄達の道が半ば閉ざされていた筈なのに、氏長者であった長兄の道隆、三兄道兼が相次いで病死した為お鉢が回って来たというのは有名な話。
んでもって長兄道隆の跡継ぎである内大臣伊周を退け藤原氏嫡流として権勢を誇ったのも有名な話。
伊周失脚の後に内大臣として道長を補佐したのが叔父にあたる公季であるが、この公季の家系は閑院流という名でこの先しばしば出て来るので記憶の片隅に置いておこう。

さて、延久の荘園整理令に代表される様に積極的な親政を行う後三条帝に対し、摂関政治に欠かせない女子に恵まれなかった関白頼通は、弟左大臣の教通に氏長者を譲り、暫くして自分で建てた平等院へ引き篭もってしまう。
衣冠極めた父、道長も晩年は法成寺で念仏を唱える生活であったろうから、余程末法の世とは恐ろしい存在であったのだろうなと。
これが浄土教信仰というものであり、阿弥陀如来様の功徳とはまっこと有難いものである、南無阿弥陀仏。
また、従兄弟同士や叔父、甥の間柄に留まらず異母であろうが同母であろうが兄弟で権力争いをするのが藤原摂関家の常。
頼通、教通兄弟の争いは、夫々の息子である師実、信長の何れを関白に就けるかという争いへ変わって行くのだが、これが後三条帝から貞仁親王への譲位後という難しいタイミングで起こるからややこしい。

後三条帝には3人の皇子がいたのだが、長男の貞仁親王は上記の閑院流公季の嫡子(実際は孫)公成の娘、茂子との間に生まれた子、つまり嫡流でないとはいえ藤原氏を外戚に持つ皇子であった。
次男の実仁親王、三男の輔仁親王は母が藤原氏でないので、外戚を嫌う後三条帝はこちらを皇嗣としたかったようだが、如何せん帝の退位時には2歳児と0歳児、会話が「ハーイ」「バーブ」「チャーン」だけでは政治にならない。
仕方無しに実仁親王を皇太弟とすることで貞仁親王に譲位……これが白河天皇の践祚である。
上皇となった後三条院は翌年、「白河帝の次は実仁親王を皇位に、輔仁親王はその次に践祚」との言葉を残して崩御するのだが、肝心の実仁親王が15歳にして疱瘡で没してしまう。
遺勅に従うならば輔仁親王を皇太弟とし譲位するところなのだが、ここで白河帝は実子の善仁親王を立太子し同日には譲位、堀河天皇を即位させてしまう。
これは一般的に輔仁親王の系統を皇嗣候補から除外する目的で白河院が強く推し進めた結果とされるが、朝廷内でも誰彼構わず天然痘に倒れる時代に於いて、親王はやはり有力な皇位継承者であった事は間違いなく、やがては永久の変という事件へ発展して行くのだが、それはまた別のお話。

ところで話を藤原氏に戻すと、師実、信長の従兄弟同士による関白争いは夫々が左大臣、内大臣に進む所まで至った訳だが、もともと師実の養子として東宮時代に入内した賢子を白河帝が寵愛しており、ここに於いて氏長者であった関白教通が亡くなると形勢は一気に師実側へと有利に傾く。
これにより藤原氏の嫡流は師実系統に落ち着くのだが、実はこの中宮賢子は村上源氏の出身であり、結果として堀河帝の即位は外戚である藤原氏の影響力を削ぐ形となったという皮肉。
いや、白河帝としては寵姫の息を皇位に就けたいってのが一番の動機だったように思えてならないんだけれども。
余談ではあるが白河帝の好色は当時から有名で、それが原因で後に天下の大騒動が起こるのだが、賢子が亡くなるまでは殆ど浮いた話がないというのが意外である。

また、賢子は堀河帝を出産する前に敦文親王という皇子を出産しているのだが、この親王は僅か4歳で没してしまう。
これには逸話があり、園城寺の僧で頼豪という者が、何でも望みを叶えるという約束で白河帝の皇子誕生を祈願し敦文親王が生まれたが、望んだ戒壇院建立は山門派の抵抗で終に果たされることがなかった。
戒壇を置くということは国家がその寺に授戒を行うことを認める行為であり、最澄没後、延暦寺に大乗戒壇が置かれた際は天台内部に留まらず南都の寺院をも巻き込んでの大論争となったらしい。
お山から出て行った寺門派にしてみれば戒壇院建立は悲願であったろうが、望みが叶わなかった頼豪は、今度は生まれた親王を呪詛で取り殺し、更には石の体躯と鉄の牙を持つ巨大な鼠へと姿を変えたという。
この頼豪が変化した妖怪を鉄鼠というそうな。
なお、敦文親王の没年は1077年、頼豪の没年は1084年であることに注意されたい。

長らく寄り道をしたが、後三条帝から白河帝の治世は、一般的に外戚の影響を排して院政期への流れを形作ったと評されるけれども、こうやって見ると実はもう少し複雑な事情があったんだなと。
勿論結果としては先の寸評で間違ってはいないのだけれども、この後の閑院流台頭を考えるとやはり物足りない所があるし、白河院の院政初期はどうもイメージされるほど絶大な権力を握っていた様ではないし。

では白河法皇が如何にして治天の君と称される様になったのかは次回に。
あと186年……
posted by Yatsumi at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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